『喜嶋先生の静かな世界』に関する謎について

ネタバレ有り!!
未読の方は読了後に!!


「自伝的小説」と銘打たれているように、作者自身の経験を元にして、大学での研究に打ち込めた頃の(一日中微分方程式に取り組んでいた)日々を描きながら、何かに打ち込むことの素晴らしさを描いている。そういう意味では、帯の惹句は正しいのかもしれない。でも煽り過ぎのように感じた。それが第一の違和感だ。
ある種の切なさを含んだ結末は、甘い幻想から読者を引き戻させる効果はあったと思うし、苦い余韻となって物語に深みを与えたと思う。ただ、喜嶋先生との日々を描くのに女性を絡める必要はあるだろうか。確かにそれは、作者の意図であって読者に口をはさむ余地はない。しかし、助教授になった喜嶋先生が自由に研究ができなくなり大学を去るエピソードはそれだけで十分で、その時結婚をしていなくても良かったのではないか。つまり、なぜ「沢村さん」を登場させたのか。それが第二の違和感だ。喜嶋先生が計算センターのマドンナである沢村さんにプロポーズするということで喜嶋先生の凄さが強調できるわけで、物語の構成上、必要だったという見方もできるが、テーマから少しずれるのではないかと感じたのだ。
そこまで考えて思いついたことは、この物語で登場させたかったのは、実は、沢村さんなのではないか、ということだ。
沢村さんに関する記述を抜き出してみる。
・ 色白で髪はショート、大体いつもミニスカートなのだけれど、(P.172)
・ 計算機のこと、プログラミングのことに詳しい。(P.173)
・ とにかく、頭が切れる。(P.173)
・ コンピュータのことを熟知している。(P.173)
・ その冷たさが堪らない(P.174)

誰かを思い出さないだろうか。そう、言うまでもなく「真賀田四季」だ。ただ、この物語の時期がどうやら昭和60年(1985年)前後と思われ(※1)、その当時、四季は20歳で妃真加島に軟禁中だったはず。その約十年後の1994年に妃真加島から脱出(「すべてがFになる」)するまで長期間島を離れたことは無いはずだ。残念ながら沢村さんは四季ではありえないが、実はこの時期に島を脱出していたとすると、沢村さんが四季だったという可能性はあるだろう。(※2)
もし、沢村さんが四季だったとすると、この物語はその性格をガラリと変えるのではないか。

短編の「キシマ先生の静かな生活」は、短編集「まどろみ消去」に収録されている。「まどろみ消去」は97年7月に刊行されている。ある著作によると「ゴールデンウィークに一気に書いた」とある。つまり97年の5月だろう。その前にS&Mシリーズ第5作である「封印再度」が出版されている。すでに後半5作も書き上がっていたようだ。つまり、S&Mシリーズの丁度中間。そのタイミングで出版された短編集だったのだ。犀川と萌絵が登場する短編や「ファンタジかコメディ」が集められた作品集だ。その中で、「キシマ」は最後を飾っている。苦い余韻を残すラストと恩師や研究の日々への追想というノン・ミステリィ的展開。様々なタイプの話を纏めた短編集だからこそ、そんなストーリーもありだろうと読者は考えるだろう。事実、ネットでの感想もそういったものが多い。穿った見方をすれば、その短編集の構成こそトリックではないかと疑えないこともない。というか、いかにも森さんらしいと思うのだが、いかがだろうか。そう考えれば、「トリッキィなミステリィ」という表現も納得だ。

もう一つ。沢村さんが四季だったとすると、腑に落ちることがある。それは、喜嶋先生が言った「学問には王道しかない」という言葉だ。「えっと、覇道と言うべきかな」(P.210)とも言っている。「覇道」というのは、広辞苑によると「儒教の政治理念で、武力や権謀をもって支配・統治すること。」とある。どうも喜嶋先生にそぐわないような気がしていたのだ。しかしこの時点で喜嶋先生が沢村さんを四季だと認識し本質を理解していたとすると、「覇道」という言葉はしっくりくる。沢村さんの結婚も納得しており、離婚することも知っていたのではないだろうか。
また、物語の終盤でたまに会う喜嶋先生の口調が丁寧になったというのも、四季からの影響とは考えられないだろうか。

こう考えてくると、この「喜嶋先生の静かな世界」という作品は、表に見えている世界と直接は見えない裏の世界の二つを同時に描いていることになる。こんな構成の小説は見たことがない。しかも、そのどちらもが素晴らしいものだ。

改めて、タイトルの「静かな世界」が胸に迫る。

まぁ、たぶん、森博嗣ファンはとっくに気づいているものと思われるが・・・。

それにしても、誰が天才って、森さんこそが天才だよ。

(※1)
物語中に描かれているコンピュータの描写によると、丁度大学にTSSが導入される前後である。これは、大学によっても時期がまちまちだろうとは思うが、概ね昭和60年前後のようである。

(※2)
気になるシーンがある。キシマ先生に連れられて訪れたスナックでの会話で「セクハラ」という言葉が出てくるのだ。「セクハラ」という言葉は1990年前後に使われだしたらしく、この物語の時期と合わないのだ。こういう考証は森さんはきちんとすると思うので、これについても「王道と覇道」の使い方と同じような違和感を感じる。